狂ったヒトたちの話 第三話
狂ったヒトたちの話をしようと思う。
男は泣いていた。
どろどろと濁流のような汚い涙が頬を伝っていた。
男はその涙を拭うこともない。
まるで泣いていることに気づいていないようにも見えた。
男は何か言葉を発しようとしたが、
声はすっかり干からびてしまって
喉の奥からは何も出てこなかった。
男はひどく混乱していた。
彼は、自分の頭部と格闘していたのだ。
彼の頭部(それほど大きくない)はまるで
それ自身が確固たる意志を持ったかのように
自由に動いてしまうのだ。
男の制止を振り切っては、
ゆっくりと横を向き、天上を仰ぎ、深く胴体に沈み込んだりした。
頭部は与えられた義務を着実に遂行する将校のように、
堂々たる風格さえ見せていた。
俺の頭だぞ?!
彼は両手で顔を押さえなんとか動きを止めようと必死だった。
しかし、どんなに腕に力を入れ強引に顔を正面に向けても、
しばらくすると勝手に、頭部は男が意図せぬ方向に動いてしまう。
そんな格闘を繰り返し、彼は疲労を感じつつあった。
いくつもの首の筋が痛みを帯びてきていた。
それもそうだ。頭部が言うことを聞かなくなってから
二時間近くが経とうとしているのだから。
ほら、まただ!
正面を向いていたはずの男の顔はゆっくりと横を向き始める。
それに合わせ、男の視線も
正面にある14インチのテレビ画面から
ゆっくりと離れ横の壁に移っていく。
さほど広くもない殺風景な20代独身男の部屋だ。
窓枠には洗濯物が掛けられたまま。
カーテンは大家の趣味で淡いオレンジに花柄模様。
引っ越してきた時から掛けてあって
別にこだわりもなかったからそのままにしてあるだけだ。
壁にはビジュアルバンドのポスターが貼ってあった。
色とりどりに染められた髪、
厚く塗られた化粧、鼻ピアスにカラーコンタクト。
スピリットタンに腕にはタトゥー。
彼らが街中を歩く姿はきっと、どこかのテーマパークの
パレードのように華やかで人目を惹くに違いない。
男は独り真夜中に彼らの音楽をかけ自分だけの世界に浸った。
(家の造りが古いのであまり音量を上げれない)
ビールを喉に流し込みながら彼らの歌声に酔いしれた。
彼らの歌はどれも苦痛や欲望や悔恨やらに満ちていて、
男はココロが震え、癒えていくのを感じることができた。
彼らは生命を削ぎ落とし、その削り屑を譜面にのせているのだ。
そしてぎりぎりのところに佇んでいる自分。
死は手を伸ばせばすぐそこにあった。
その日の夜も、男はいつものように彼らの歌を聴いていたのだ。
平凡な一日だった。
昼近くに起きてコンビニの弁当(賞味期限切れで捨てるはずの
ものをこっそり持ち帰ってきたのだ)をレンジで温めて食べると
のそのそと着替え、単車に乗ってバイト先に向かった。
愛想笑いを浮かべることもなく淡々と機械的にバーコードを読みとる。
仕事を終えたのは深夜0時。
それからビールを二缶とつまみを買って帰ってきた。
なんの変哲もないお決まりの一日だ。
まさかその終わりにこんな突拍子もない事件が待っていようとは。
ぎしぎしぎし…
首が不吉な音を立てた。
まるで胴体と頭部をつないでいる金具が錆びて
取れかかっているような音だ。鉄だって腐ると脆くなる。
そのうちゴロッと頭部が落ちてしまうかもしれない。
そう考えて男は冗談じゃないと首を横に振った。
(実際は首を振りたかったが動いてくれなかった)
いったいどうしてこんなことになったんだ!?
誰かに助けを呼ぼうと彼は考えた。
しかし思い当たるヤツは一人もいなかった。
こんな不可解な状況を話したところで、
あるヤツは嘲笑し、他のヤツらはろくに話も聞かずに
なんらかの理由をつけて電話を切るに違いない。
どうして俺の周りには誰もいないんだ!
男は自分を罵った。
そして浅く狭い人間関係しか築けない自分自身を惨めに思った。
一瞬の間をおいて脳裏に浮かんだのは
3歳上の姉だった。
すでに結婚して昨年暖かな静岡南部の海岸沿いに
マンションを買って住んでいた。
しばらく疎遠になっているが彼らは仲がよかったのだ。
弟を心配して東京まで出てきてくれるかもしれない。
少なくとも何らかの解決策を示唆してくれるはずだ。
彼女は頭がいいのだから。
震える手で携帯のボタンを押す。
ぷるるる…
無機質な音が暗い部屋に響いた。
ごくん。
彼の唾を飲み込む音は艶めかしくも聞こえた。
数回呼び出し音が鳴り、、
ただいま電話に出られません。
ご用の方はメッセージをど
ツーツーツー
いつもこうだ!
煩わしいことはできるだけ避けて通る女なのだ!
持ち前の要領の良さと人なつこい笑顔で愛想を振りまき
誰からも愛される存在だった。
彼女はいつも主役だった。
お前のせいだ!
お前がいたから俺はいつも黒子に徹しなくてはならなかったのだ!
陰を歩かなくてはならない羽目になったのだ!
くそうっ。
くそうっ!くそうっ!!
彼は拳で壁を殴った。
顔が正面を向いていないため、うまく力が入らなかったのだが、
それでも手がじんと熱くなった。痛みものっそりとやってきた。
彼は、その痛みに少し安堵した。
そして男は、
静かに母を思いだした。
母は男の生家でもある山間の小さな町で
身体の不自由な父とともに暮らしていた。
いや、暮らしているはずだ。
彼は携帯を取るとゆっくり番号を押しかけ、しかし止めた。
この俺が、いったいどうして母に助けを求められよう?
姉経由実家の様子を聞いてはいるが
彼自身もう何年も連絡をとっていない。
最後に顔を見たのはいつだ?
昨年父親が痴呆症にかかったと聞いた。
下身体が不自由な上に意味不明な発言を繰り返す父は
母の手には負えず、ヘルパーを探しているらしい。
これ以上母に迷惑をかけてどうする?
ボケた亭主と、頭がおかしくなった(文字通りだ)息子!
男が家を出たのは高校を卒業してすぐだった。
男は中高と、所謂不良で、学校に行くふりをしては
ゲーセンで時間をつぶし街をぶらぶらと徘徊した。
学ランの丈は短くズボンは腰まで落として履いた。
髪は金髪に染め前髪は長く垂らした。
他校の不良とよく喧嘩もした。
ガンをつけられると胸の奥がかっと熱くなり、
気づいた時には相手に殴りかかっていた。
男は平均的な身長の痩せ型で喧嘩が強いようには見えなかった。
事実、強くなかったのだが、どんなに殴られても立ち上がった。
ぼこぼこにされても、口端から血を流そうとも、
顔にはにやけ笑いを浮かべていた。
腕を折られたこともあった。
それでもなぜか彼は笑っていた。
しまいには、相手の方が気味悪がって逃げていく始末だった。
その意味で男は喧嘩に強かった。
何度も警察に連行され、その度に母親が呼び出された。
ヒステリックに泣き罵る母親の姿に男は心を痛めた。
そして素直に謝罪した。
もうやるまい。何度心に誓ったことか。
しかしその決意は脆くも崩れた。
彼は他人のちょっとしたしぐさにカチンと切れてしまい、
そこからは自制できないのだ。
記憶がないと言ってもいい。
悪魔にとりつかれたのだ。
男がそう供述した時にはもう少しで精神鑑定に連行されるところだった。
彼には感情がなかった。
感情と呼ぶべきもの何なのかもわからなかった。
生きている感覚さえなかった。
唯一あるとすれば、毎回頭を深く下げ警察まで迎えにきてくれる母親への
申し訳ないという気持ちだけだった。
それだけだ。
携帯を手に、思案にくれる男をせせら笑うかのように、
また頭部が動き出した。
今度はゆっくり上を向き始める。
もはや抵抗する気も失せた。
男は携帯を放り投げた。
もう勝手にしてくれ。
上を向くなり後ろを向くなり(向けるもんなら)勝手にするがいい。
むしろ、もうどこへでも行くがいい。
気の向くまま好きな所に行ってしまえ。
そう考えて男ははっと気づいた。
なんだ、簡単じゃないか。
落としてしまえばいいのだ。
頭部と決別すればいいのだ。
お前のワガママぶりには愛想が尽きた。
もう勝手にするがいい!
そうして男は、ロフトの梯子(男の部屋にはロフトがついていて、
彼は寝床として使っていた)を不器用にあがり
ビニール紐(雑誌をくくるやつだ)を輪にすると
その両端を梯子の手すりの高い位置にきつく結んだ。
それから梯子を降りると椅子をそのちょうど真下にセットした。
座面に登りビニールの輪っかを二度三度強く引っ張っる。
大丈夫だ。ビニール紐の端は梯子の手すりと堅く結ばれていて、
彼の体重であればはずれそうもない。
それにしても、何をやるにも時間がかかって仕方がない。
胴体と顔の向きが揃っていないのだから。
他人が見たらなんて滑稽に映るだろう。
彼は道化師として舞台でパントマイムを披露する自分の姿を想像し、
口の端で苦笑した。
道化師だって構わない。
一度だけでよかったのだ。
彼は舞台でライトを浴びたかったのだ。
ただ一瞬でいい、生命の輝きを感じたかっただけなのだ。
しかし現実は観客動員数ゼロの絞首台に立つ自分の虚しい姿だった。
無心だった。
男は何も感じていなかった。
もしいま彼のココロと呼べるモノを振ったら、
からんからんと乾いた音がするだろう。
男はビニール紐の輪に首を突っ込んだ。
本来であれば正面を向くべきであろうが、ご存じの通り、
今の彼の顔は斜め上を向いていた。
まあ、もはやそれでよかろう。もうこの頭部に未練はない。
彼は椅子を強く蹴った。
ぎしっと首にビニール紐が食い込み男の体重がかかった。
男はごろん、と自分の首が落ちた音を聞いた気がした。
やった、と彼は思った。
どんよりと闇が彼を覆っていき、そしてゆっくりと薄れる意識の中で、
男はこちらを見てにやりと笑う自分の頭部を見た気がした。
どのくらいの時間が経過したのだろう。
男は揺り動かされて目が覚めた。
ぼんやりと視界に映る景色が輪郭を表し、
意識もはっきりとしてきた。
男の部屋だった。
男は床に仰向けになって倒れていた。
周りには誰もいない。
ゆっくりと身体を起こすとあちこちに痛みを感じた。
不器用に確認すると、足には痣がいくつもあり、腕には擦り傷があった。
何より首が痛い。
そこで男はやっとはっと気づいて、両手で顔をおさえた。
彼の頭部は間違いなく彼の胴体につながっていた。
そして、彼は自由に動かすことができた。
左右に首を振ったり上下運動もできる。回すことだって。
夢を見ていたのだろうか。
辺りを見回すと、飲み干したビールの缶やつまみのサキイカの袋や
雑誌やらが散乱しており、
それから輪っかになったビニール紐と大量の錠剤を開けた形跡があった。
男が昨晩のことに考えをめぐらそうとした時、
携帯のバイブが鳴った。
姉だった。
「なんで出ないのよ!昨晩から何度もならしてるのに!!」
姉によると、昨晩母が父を道連れに自殺を図ったということだった。
夜中になっても電話に出ないことを不信に思った姉が、
警察に確認を依頼したところ自宅で首をつっている母を発見したそうだ。
父親には細い紐らしきもので首を絞められた痕があったそうだ。
病院に運ばれ二人とも死亡が確認された。
姉は夜のうちに車を走らせ病院に向かい、
その間も終始男に電話をかけていたという。
「あんたも今すぐこっちに来てよ。病院はね…」
男は電話を切った。
すべてが腑に落ちたように思われた。
男はのそのそと身支度をして単車にまたがった。
向かった先は知人の彫り師のアトリエだった。
ドアを叩くと彫り師が出てきて何も言わずに彼を中に招き入れた。
そこで男は首から腰にかけてビーナスを刺れた。
腕の良い彫り師だった。
針を刺し色を入れる間、男は呻き声一つあげなかった。
ただ一言はっきりとした口調で言った。
「顔は、いらない」
貝殻から生まれたその姿は初々しく豊潤で妖艶でもあった。
男は顔のないビーナスを背中に背負い今も生きている。
男は泣いていた。
どろどろと濁流のような汚い涙が頬を伝っていた。
男はその涙を拭うこともない。
まるで泣いていることに気づいていないようにも見えた。
男は何か言葉を発しようとしたが、
声はすっかり干からびてしまって
喉の奥からは何も出てこなかった。
男はひどく混乱していた。
彼は、自分の頭部と格闘していたのだ。
彼の頭部(それほど大きくない)はまるで
それ自身が確固たる意志を持ったかのように
自由に動いてしまうのだ。
男の制止を振り切っては、
ゆっくりと横を向き、天上を仰ぎ、深く胴体に沈み込んだりした。
頭部は与えられた義務を着実に遂行する将校のように、
堂々たる風格さえ見せていた。
俺の頭だぞ?!
彼は両手で顔を押さえなんとか動きを止めようと必死だった。
しかし、どんなに腕に力を入れ強引に顔を正面に向けても、
しばらくすると勝手に、頭部は男が意図せぬ方向に動いてしまう。
そんな格闘を繰り返し、彼は疲労を感じつつあった。
いくつもの首の筋が痛みを帯びてきていた。
それもそうだ。頭部が言うことを聞かなくなってから
二時間近くが経とうとしているのだから。
ほら、まただ!
正面を向いていたはずの男の顔はゆっくりと横を向き始める。
それに合わせ、男の視線も
正面にある14インチのテレビ画面から
ゆっくりと離れ横の壁に移っていく。
さほど広くもない殺風景な20代独身男の部屋だ。
窓枠には洗濯物が掛けられたまま。
カーテンは大家の趣味で淡いオレンジに花柄模様。
引っ越してきた時から掛けてあって
別にこだわりもなかったからそのままにしてあるだけだ。
壁にはビジュアルバンドのポスターが貼ってあった。
色とりどりに染められた髪、
厚く塗られた化粧、鼻ピアスにカラーコンタクト。
スピリットタンに腕にはタトゥー。
彼らが街中を歩く姿はきっと、どこかのテーマパークの
パレードのように華やかで人目を惹くに違いない。
男は独り真夜中に彼らの音楽をかけ自分だけの世界に浸った。
(家の造りが古いのであまり音量を上げれない)
ビールを喉に流し込みながら彼らの歌声に酔いしれた。
彼らの歌はどれも苦痛や欲望や悔恨やらに満ちていて、
男はココロが震え、癒えていくのを感じることができた。
彼らは生命を削ぎ落とし、その削り屑を譜面にのせているのだ。
そしてぎりぎりのところに佇んでいる自分。
死は手を伸ばせばすぐそこにあった。
その日の夜も、男はいつものように彼らの歌を聴いていたのだ。
平凡な一日だった。
昼近くに起きてコンビニの弁当(賞味期限切れで捨てるはずの
ものをこっそり持ち帰ってきたのだ)をレンジで温めて食べると
のそのそと着替え、単車に乗ってバイト先に向かった。
愛想笑いを浮かべることもなく淡々と機械的にバーコードを読みとる。
仕事を終えたのは深夜0時。
それからビールを二缶とつまみを買って帰ってきた。
なんの変哲もないお決まりの一日だ。
まさかその終わりにこんな突拍子もない事件が待っていようとは。
ぎしぎしぎし…
首が不吉な音を立てた。
まるで胴体と頭部をつないでいる金具が錆びて
取れかかっているような音だ。鉄だって腐ると脆くなる。
そのうちゴロッと頭部が落ちてしまうかもしれない。
そう考えて男は冗談じゃないと首を横に振った。
(実際は首を振りたかったが動いてくれなかった)
いったいどうしてこんなことになったんだ!?
誰かに助けを呼ぼうと彼は考えた。
しかし思い当たるヤツは一人もいなかった。
こんな不可解な状況を話したところで、
あるヤツは嘲笑し、他のヤツらはろくに話も聞かずに
なんらかの理由をつけて電話を切るに違いない。
どうして俺の周りには誰もいないんだ!
男は自分を罵った。
そして浅く狭い人間関係しか築けない自分自身を惨めに思った。
一瞬の間をおいて脳裏に浮かんだのは
3歳上の姉だった。
すでに結婚して昨年暖かな静岡南部の海岸沿いに
マンションを買って住んでいた。
しばらく疎遠になっているが彼らは仲がよかったのだ。
弟を心配して東京まで出てきてくれるかもしれない。
少なくとも何らかの解決策を示唆してくれるはずだ。
彼女は頭がいいのだから。
震える手で携帯のボタンを押す。
ぷるるる…
無機質な音が暗い部屋に響いた。
ごくん。
彼の唾を飲み込む音は艶めかしくも聞こえた。
数回呼び出し音が鳴り、、
ただいま電話に出られません。
ご用の方はメッセージをど
ツーツーツー
いつもこうだ!
煩わしいことはできるだけ避けて通る女なのだ!
持ち前の要領の良さと人なつこい笑顔で愛想を振りまき
誰からも愛される存在だった。
彼女はいつも主役だった。
お前のせいだ!
お前がいたから俺はいつも黒子に徹しなくてはならなかったのだ!
陰を歩かなくてはならない羽目になったのだ!
くそうっ。
くそうっ!くそうっ!!
彼は拳で壁を殴った。
顔が正面を向いていないため、うまく力が入らなかったのだが、
それでも手がじんと熱くなった。痛みものっそりとやってきた。
彼は、その痛みに少し安堵した。
そして男は、
静かに母を思いだした。
母は男の生家でもある山間の小さな町で
身体の不自由な父とともに暮らしていた。
いや、暮らしているはずだ。
彼は携帯を取るとゆっくり番号を押しかけ、しかし止めた。
この俺が、いったいどうして母に助けを求められよう?
姉経由実家の様子を聞いてはいるが
彼自身もう何年も連絡をとっていない。
最後に顔を見たのはいつだ?
昨年父親が痴呆症にかかったと聞いた。
下身体が不自由な上に意味不明な発言を繰り返す父は
母の手には負えず、ヘルパーを探しているらしい。
これ以上母に迷惑をかけてどうする?
ボケた亭主と、頭がおかしくなった(文字通りだ)息子!
男が家を出たのは高校を卒業してすぐだった。
男は中高と、所謂不良で、学校に行くふりをしては
ゲーセンで時間をつぶし街をぶらぶらと徘徊した。
学ランの丈は短くズボンは腰まで落として履いた。
髪は金髪に染め前髪は長く垂らした。
他校の不良とよく喧嘩もした。
ガンをつけられると胸の奥がかっと熱くなり、
気づいた時には相手に殴りかかっていた。
男は平均的な身長の痩せ型で喧嘩が強いようには見えなかった。
事実、強くなかったのだが、どんなに殴られても立ち上がった。
ぼこぼこにされても、口端から血を流そうとも、
顔にはにやけ笑いを浮かべていた。
腕を折られたこともあった。
それでもなぜか彼は笑っていた。
しまいには、相手の方が気味悪がって逃げていく始末だった。
その意味で男は喧嘩に強かった。
何度も警察に連行され、その度に母親が呼び出された。
ヒステリックに泣き罵る母親の姿に男は心を痛めた。
そして素直に謝罪した。
もうやるまい。何度心に誓ったことか。
しかしその決意は脆くも崩れた。
彼は他人のちょっとしたしぐさにカチンと切れてしまい、
そこからは自制できないのだ。
記憶がないと言ってもいい。
悪魔にとりつかれたのだ。
男がそう供述した時にはもう少しで精神鑑定に連行されるところだった。
彼には感情がなかった。
感情と呼ぶべきもの何なのかもわからなかった。
生きている感覚さえなかった。
唯一あるとすれば、毎回頭を深く下げ警察まで迎えにきてくれる母親への
申し訳ないという気持ちだけだった。
それだけだ。
携帯を手に、思案にくれる男をせせら笑うかのように、
また頭部が動き出した。
今度はゆっくり上を向き始める。
もはや抵抗する気も失せた。
男は携帯を放り投げた。
もう勝手にしてくれ。
上を向くなり後ろを向くなり(向けるもんなら)勝手にするがいい。
むしろ、もうどこへでも行くがいい。
気の向くまま好きな所に行ってしまえ。
そう考えて男ははっと気づいた。
なんだ、簡単じゃないか。
落としてしまえばいいのだ。
頭部と決別すればいいのだ。
お前のワガママぶりには愛想が尽きた。
もう勝手にするがいい!
そうして男は、ロフトの梯子(男の部屋にはロフトがついていて、
彼は寝床として使っていた)を不器用にあがり
ビニール紐(雑誌をくくるやつだ)を輪にすると
その両端を梯子の手すりの高い位置にきつく結んだ。
それから梯子を降りると椅子をそのちょうど真下にセットした。
座面に登りビニールの輪っかを二度三度強く引っ張っる。
大丈夫だ。ビニール紐の端は梯子の手すりと堅く結ばれていて、
彼の体重であればはずれそうもない。
それにしても、何をやるにも時間がかかって仕方がない。
胴体と顔の向きが揃っていないのだから。
他人が見たらなんて滑稽に映るだろう。
彼は道化師として舞台でパントマイムを披露する自分の姿を想像し、
口の端で苦笑した。
道化師だって構わない。
一度だけでよかったのだ。
彼は舞台でライトを浴びたかったのだ。
ただ一瞬でいい、生命の輝きを感じたかっただけなのだ。
しかし現実は観客動員数ゼロの絞首台に立つ自分の虚しい姿だった。
無心だった。
男は何も感じていなかった。
もしいま彼のココロと呼べるモノを振ったら、
からんからんと乾いた音がするだろう。
男はビニール紐の輪に首を突っ込んだ。
本来であれば正面を向くべきであろうが、ご存じの通り、
今の彼の顔は斜め上を向いていた。
まあ、もはやそれでよかろう。もうこの頭部に未練はない。
彼は椅子を強く蹴った。
ぎしっと首にビニール紐が食い込み男の体重がかかった。
男はごろん、と自分の首が落ちた音を聞いた気がした。
やった、と彼は思った。
どんよりと闇が彼を覆っていき、そしてゆっくりと薄れる意識の中で、
男はこちらを見てにやりと笑う自分の頭部を見た気がした。
どのくらいの時間が経過したのだろう。
男は揺り動かされて目が覚めた。
ぼんやりと視界に映る景色が輪郭を表し、
意識もはっきりとしてきた。
男の部屋だった。
男は床に仰向けになって倒れていた。
周りには誰もいない。
ゆっくりと身体を起こすとあちこちに痛みを感じた。
不器用に確認すると、足には痣がいくつもあり、腕には擦り傷があった。
何より首が痛い。
そこで男はやっとはっと気づいて、両手で顔をおさえた。
彼の頭部は間違いなく彼の胴体につながっていた。
そして、彼は自由に動かすことができた。
左右に首を振ったり上下運動もできる。回すことだって。
夢を見ていたのだろうか。
辺りを見回すと、飲み干したビールの缶やつまみのサキイカの袋や
雑誌やらが散乱しており、
それから輪っかになったビニール紐と大量の錠剤を開けた形跡があった。
男が昨晩のことに考えをめぐらそうとした時、
携帯のバイブが鳴った。
姉だった。
「なんで出ないのよ!昨晩から何度もならしてるのに!!」
姉によると、昨晩母が父を道連れに自殺を図ったということだった。
夜中になっても電話に出ないことを不信に思った姉が、
警察に確認を依頼したところ自宅で首をつっている母を発見したそうだ。
父親には細い紐らしきもので首を絞められた痕があったそうだ。
病院に運ばれ二人とも死亡が確認された。
姉は夜のうちに車を走らせ病院に向かい、
その間も終始男に電話をかけていたという。
「あんたも今すぐこっちに来てよ。病院はね…」
男は電話を切った。
すべてが腑に落ちたように思われた。
男はのそのそと身支度をして単車にまたがった。
向かった先は知人の彫り師のアトリエだった。
ドアを叩くと彫り師が出てきて何も言わずに彼を中に招き入れた。
そこで男は首から腰にかけてビーナスを刺れた。
腕の良い彫り師だった。
針を刺し色を入れる間、男は呻き声一つあげなかった。
ただ一言はっきりとした口調で言った。
「顔は、いらない」
貝殻から生まれたその姿は初々しく豊潤で妖艶でもあった。
男は顔のないビーナスを背中に背負い今も生きている。















